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聖アナスタシア殉教者  St. Anastasia Vid. M.        記念日 12月 24日


 聖女アナスタシアは初代キリスト教会に於いて最も有名な殉教者の一人である。それは彼女の名がミサ典文中に記された少数の聖人方の中に加えられ、また緒聖人の連祷中に出てくる事によっても知れよう。
 アナスタシアは3世紀の中頃ローマに於いて貴族の家に生まれた。父プレテクスタトは熱心な偶像教信者であったが、母フラヴィアは窃かにキリスト教を奉じ、娘にも之を教え育てた。その中母が死ぬと、やはり後に殉教した聖司祭クリソゴノが代わって彼女の教育に当たった。
 アナスタシアが年頃になると、父はプブリオという富豪の一青年に娶せた。ところがこの若い夫は奢侈贅沢や放蕩を好み、妻に一方ならぬ心配をかけた。それでもアナスタシアは出来るだけ柔和親切に夫に仕え、その気に入るように努め陰では絶えず彼の改心の為祈っていたのである。
 しかるにプブリオは妻の殊勝な態度を見て、これはてっきりキリスト信者に相違ないと目星をつけ、いよいよその事実を確かめると、大いに立腹して彼女を散々に苦しめ、暗い一室に放り込んだまま食物もろくに与えなかった。彼女は窃かに書を送ってその窮状をわが霊魂の指導者なるクリソゴノ師に訴えたが、その返書に師は懇ろに彼女を慰め、勇ましい殉教の精神を以て総てを耐え忍ぶよう諄々と諭してよこした。
 その中にプブリオは旅に出て途中病に罹り、とうとうあの世の人となってしまったから、アナスタシアは全く自由の身となったが、それからは慈善の業をわが使命として、或いは貧者の家を訪れて施しをしたり、或いは獄中に繋がれた同信の兄弟姉妹達を慰問したりした。もちろんそれは官憲の目を盗んで窃かに行ったのであるが、いつか嗅ぎつけられてキリスト信者と認められ、法廷に引かれ、裁判の結果は数多の信者諸共パルマ島に送られ死刑に問われる事となったのである。
 その処刑の方法は人によりまちまちであったが、アナスタシアは柱に縛められ火炙りに行われて殉教致命の栄冠を得た。時に主イエズス御降誕後303年のことであった。
 後ローマには彼女を記念する美麗な聖堂が建立された。それは今でも枢機卿の聖座となっている。昔はクリスマスに教皇が第二の御ミサを執行するため同聖堂に御幸される習慣があったが、今は廃止された。その代わりクリスマスの第二の御ミサ中すべての司祭が聖女アナスタシアを記念することとなっている。

教訓

 待降節は本日で終わる。「天に在っては神に光栄、地に在っては善意の人々に平安!」という天使の歌を聞く時も近づいた。その平安と主の御聖寵とを豊かに頂く為に、心を清うして御降誕の吉日を迎えようではないか。